溝口健二監督「愛怨峡」
- たかはし
- 2017年3月20日
- 読了時間: 6分
2017年2月25日 第2回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!
課題作品は溝口健二監督の「愛怨峡」
ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!
おふみというこの主人公はよく泣く人だ。謙吉が妊娠を親に打ち明けなかったから泣き、駆け落ちしては泣き、謙吉が 田舎へ帰ってしまっては泣き、産婆に子供を預けては泣き。30分もしないうちに4回、8分に1回泣いている。泣き過ぎじゃないかと思って状況を見てみると、しかしこりゃ泣くだろうなと思えてくる。じゃあこのどこか傍観している感覚はなんだろう。
僕たちは愛怨峡の中で しばしおふみ以上に状況を知り過ぎてしまう。謙吉の働き口を探して帰宅したとき、 その家の主人が新聞で顔を隠す理由が理解できる。分からず屋の親父が息子を訪ねてくるのを見たからだ。ここから「テーブルの下の時限爆弾」のようにサスペンスが生まれる。特に映画のラストへと流れ込んでいく、故郷へ帰ってきたおふみの周辺で生まれる視線劇から生まれるサスペンスは流石だ。
愛怨峡はサスペンス映画だ。僕たちは人知れず屋根から落ちる雪を最初に目撃するように、見過ぎてしまう。
たかはし
2037年の批評「たばこを吸っている女」
2037年に黒澤明の作品の著作権が切れるそうで(※0)、国立競技場の目の前にある外国人向けの箱(※1)で黒澤明を中心としたクラッシック映画イベントが開催されることになった。私は以前にもバックでVJプレイ(※2)したことのあったDJ億名(ヨクナ)にオファーを受けイベントに出演することになった。
たぶん他のVJは黒澤明の映画をre-edit(※3)するだろうしそれらとは異なるプレイをしたいと思い、私は100年前の1937年の映画素材をネタにしようと考えた。Google movie cloud(※4)から1937年の映画を検索したところ「愛怨峡」という映画がヒットしzた。
2035年にリリースされた映像特徴摘出プログラム(※5)を使えば1937年の記録映像や同監督の作品などと自動でRemixすることはできるのだが、イベントの趣旨的にアナログ賛歌な部分もあるので、自分の目で確かめてre-editの方向性を探ろうと思い「愛怨峡」を観てみることにした。
「愛怨峡」は映画として良作ではあるが、いかんせん映像の劣化が激しかった。さらに引きの画で長回しをするシーンが多く、表情のアップやアクションを際立たせるカットがないため、VJとしてはかなり使いづらいものだった。アイデアを膨らませるためWatson(※6)に特徴摘出をさせてみたところ「愛」や「母性」などという文章が表示された。それに関しても、どこか腑に落ちなかった。
イベントでは主人公のおふみが紙巻き煙草を吸うシーンをメインループ(※7)にした。2020年以降ほとんど見られなくなった紙巻きたばこ(※8)を吸っているおふみは妙に力強い印象を受けたからだ。曇るけむりからおふみの様々な表情にフォーカスしたカット、漫才のシーン、1937年の風景映像などをフラッシュしていくプレイをした。プレイ後に、億名は「あの子かわいい」と言っていて、変なところに注目するんだなと思った、けどWatsonの回答よりわかるような気がする。100年後にも、この映画に正解のようなものが与えられないまま、残り続けてほしい、と思っていた。
※0 2036年(監督没後38年)まで著作権が存続する。
※1 外国人客向けのライブスペース。東京Olympicにあわせて営業開始
※2 videojockeyの略。即興で映像を編集する。
※3 映像素材を即興で編集するVJプレイ
※4 全世界の映画がクラウド上に保存されているデータベースサイト
※5 特徴を設定すれば映像素材をGoogle movie cloudから自動収集するソフト
※6 IBMが開発した意思決定支援システム。芸術作品の特徴なども摘出する。
※7 音域が演奏されると自動で映像が流れるプレイのメインとなる映像。
※8 2019年東京都のみ紙巻きたばこの全面禁止。他地域も順次禁止されていった。
あとがき
同じ時期に観たSF映画「イリュミナシオン」(SFギミックを登場させず過去に戻れるドラッグが登場した2030年。それに溺れるの青年の生活を描く。監督は長谷川億名)やSoul Screamの「2018」(1999年に発表された2018年を予想した楽曲)などの未来を描いた作品に感銘を受けて未来の批評を書いてみました。本来ワトソンから意味不明なキーワードが、DJの女性の意見と一致する話でしたが、なん会の意見をききワトソンの「正解」のような文章が、逆に観客の「腑に落ちない」感覚を再認識させるきっかけになる内容にしました。
本多克敏(批評同人penetora:@gibs3penetra)
なによりも男と女がいる、女は男の傍らで身を持つことができない、男が離れていく、女は子供を生む、女は子供に男からとった名前をつける、子供が離れていく、二年後、女は男に絡みつきながら男を笑い飛ばしている、さいしょ女は女と同じだとはとうてい思えない、まったく別人に変わってしまったようにみえる、にもかかわらず女は女である、女は子供をそばに置くことで身を持ち直す、男と再会した女は男の誘いをことわる、にもかかわらず女は女である、そのことは女がつねに男とふたり一組でしかありえないことからわかる。
女をそこまで変化させたものはなにか、と問うべきではない。問うべきなのはまったく別人に変わってしまったようにみえる女が、「にもかかわらず」同じ女であるという確信を支えるものはなにかということだ。同一物の認知を可能にするのが不変項の存在だとすれば、それは女の顔形に還元されるものではなく、身ぶりにこそあらわれるものなのかもしれない。それはちょうど序盤の女と二年後の女も男にまとわりつき、なだれ落ちようとしながら男が負けるのを待つ(けっきょく女の目論見はつねに成功しないのだが)、上下ではなく斜めの関係において発動する力学、まさに溝口健二的な力学のことだ。そしてまた、同一物の認知を可能にするのが、映画をみているこの私の同一を前提にするのは言うまでもない。映画はそのようなつねに同一である観客を究極的に要請してしまうのだろうか。
三上耕作
母性と父性
女が母親になるのは、自分が妊娠したことを知った直後からだと言う。お腹の中に自分以外の人間がいると知った時、守らなければという気持ちが芽生え、徐々に母親としての意識、母性が芽生えてくるそうだ。 男が父親になるのは、子供の顔を見てから、生まれてからだと言う。頭では、妻(恋人)のお腹が大きくなるのを見て、自分は父親になるのだ!と思うそうだが、体内で子供を育てる女と比べ感覚的には実感し難く、子供を守らなければという父性が本格的に芽生えるのは、子供が生まれ、育て始めてからだそうだ。 謙吉が子供の心配をするのは、ふみと再会したあとだけだ。病気を心配し、将来を心配し、父親らしく振舞う。ふみの妊娠中は、子供については一言も話していなかった。やはり男は、子供が生まれてからではないと、父性が芽生えないものなのだろう。 しかし謙吉は、自分の父親に強く反対された途端、何も言えなくなってしまうのだから、一時の「父親ごっこ」でしかなかった。もし子供と数ヶ月一緒に暮らしたあとなら、もっと強い父性が芽生え、父親に強く意見できたのだろうか。謙吉の「父親ごっこ」の横で、母親としてのふみの姿が、やたら強く眩しかった。
小林和貴