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たかはし

自主映画っぽい

「自主映画っぽい」ってなんだろう。

つい先日、自主制作で映画を作った。

撮影前のリハーサルで主演する役者がある質問を私にした。それは、その役の行動が彼には納得いかないというもので「なんでこうするんだ」という問いであった。私は返答に困っていた。私には至極納得のいく、というか、私だったらこうするだろうと当然のように思っていたことだったからだ。しかし彼は納得ができない。いったいどうしたものか。すぐに返答できかねている私(監督)を見て、ある役者が言った。

「自主っぽくなってきたね〜」

私はどうもこの言葉が気になった。自主映画っぽいって何だ。監督がすぐに質問に答えられないと自主っぽいのか。各々が役割を超えて言いたいことを言えている状況のことを言うのか。役者と衝突するくらいに腹を割って話せる環境だろうか。あるいは予算が無いなりに頑張ることだろうか。困難な状況を前に熱意と気合いで泥臭く乗り切るということだろうか。

いずれにせよ、私はどうも納得がいかなかった。なぜなら「自主映画」というものを侮蔑しているようにも思えたからだ。商業映画を崇高なものとして、自主映画を、そこまでではないもの、レベルの低いもの、そんなふうに考えているように感じたからだ。

「自主映画っぽい」ってなんだろう。

少なくとも商業映画の劣化版といったものではないはずだ。商業的な成功とはまた別のものを目指した映画であろう。自分のためなのかもしれない。あるいは大衆に向けたものではないもの、大衆が見たいと思わない映画。

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