人混み批評宣言
人混みに対する視線はいつでも冷めている。冷めているというのは、書かれること、読まれることの圧倒的な少なさのことである。人はいつでも人混みの一員(一因)になりえるし、もしかしたらあなたは今まさしく人混みの構成要員となっているかもしれない。人混みとは容易に、意図せず私たちの周囲を取り囲む。だからこそそこに目を向け、書くことを試みる。
もちろんその試みは無用の長物となることから逃れられないだろう。その理由の一つは立証不可能な点にある。無意味に見える人の波に、美しさを抽出し、それを他者へ伝達することは、再現の不可能性だけでなく、ありとあらゆる瞬間、全ての空間を人は見ることができないという書き手自身の視覚的な限界もある。しかしその出来レースに果敢に挑戦し、人混みと批評を同衾させることを我々は目論む。
なぜそこまでして書かれなければならないのか。それは人混みへの評価が低下しているからだ。人混みを嫌うと宣言することはもはやクリシェとなっている。にも関わらずいまだに人混みを嫌うことがさもファッショナブルであるかのような振る舞いに我々は辟易している。むしろ今一度人混みは評価されるべきである。なぜなら、人混みとはそういった人混み嫌いすらをも丸っと包み、しかしそれでも人混みなぞ発生していないかのような透明性を保持している。その透明性を告発し、我々は人混みをダダイスティックに組み直すことにより、新たな視座を獲得していく。
あらかじめ書いておくと、これは全体主義をもてはやすことでもなければ、不安定な社会の大きな流れを汲み取ろうとする読解でもない。むしろ逆に世代横断的にいくつかの傾向が並び立ったまま存在していることの不思議さを認めるために行う。
もしこの無用の長物が人混みをさらに活発化することができれば、今まさにあなたが参加していたり、されようとしている人混みを、その内側から変容せしめることができるだろう。