ジャック・ドワイヨン『ラ・ピラート』
2017年4月29日 第4回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!
課題作品はジャック・ドワイヨン『ラ・ピラート』
ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!
アルマ。キャロル。少女。アンドリュー。ナンバー5。五人のあいだでカップル――語の本来的な意味で――の組み換えが起こりつづける。あらゆるカップルの組み換えが試みられながら、ひとつとして決定的なカップルを形成することができない。それは一対一というカップルの線の論理が、カップルの片方(あるいは双方)がそこにはいない第三者という点へと線を引いてしまうことで浮かび上がる三角形という面の論理へと回収されてしまうからだ。カップルの片方がそこにいない第三者を意識しつづけることは、カップルという関係への没入を不可能にし、もう片方をそのぶんだけ三角の関係へと組み込むだろう。それと並行するようにカップルのいる空間はほとんど孤立してみえる。空間は、そのつどカメラに捉えられた画面内の空間としてあらわれ、五人は画面内の劇とその観客にそのつど振り分けられながら、観客に振り分けられたものはほとんど疎外されるようにして画面外へと退く。画面外の声が少ないことからもこの印象は強められる。
彼らが不幸にしかならないことがはじめからわかっているのは、われわれが観客だからだ。不幸に終わる愛がつねにすでに遅すぎるように、われわれ観客は映画にたいしてつねにすでに遅すぎる。
三上耕作
”遠さ”とは層の多さに他ならない。映画に現れる層とは、具体的に見える光の明暗として現れる。
「ホース・マネー」でヴェントゥーラが長い病院の廊下(にはおおよそ見えないどこか洞窟のような場所)を歩くときに見えるのは、柱の外側から入る光によって作り出される、柱の影と柱と柱の間から入る光が作る層だ。その影を見ると、遠くに去って行くことが、距離が、現れる。
「ラ・ピラート」もまた、夜の光と街灯とか織りなす層を登場人物達が歩き、体を光に当てたり、影に入ったりすることで、距離を作り出している。ジェーン・バーキンとマルーシュカ・デートメルスが泊まるホテルの廊下は奥の廊下の光と、中間の暗さ、手前の明るさ等、照明効果によって映し出される縞々が「あちらからこちらへ」の距離を現す。それだけではなく、あまりにも光量の少ない部屋の中には明暗の層があちらこちらに現れて、そこを歩いたり、体を寄せ合ったりする度に体に影を落としている。
ところで、曇り空は太陽光をディフューズし、コントラストの薄い影を落とす。甲板の上でナイフを持ったジェーン・バーキンを始めとした登場人物達が暴力を振るい合うとき、海も、空も、アンドリュー・バーキンも、マルーシュカ・デートメルスも、どのレイヤーに置かれたモノ達にも、お互いを隔てる影は薄まり、夫婦や恋人といた垣根が取り払われたフラットな場で戦っている。
たかはし
主役になれない少女
物語を動かし始めたのは少女だ。キャロルの背中を押し、アロマをアンドリューの元から奪わせる。キャロルとアロマの味方のように振舞っているが、時にはアンドリューとナンバー5に2人の居場所を告げ、物語を混迷させていく。 しかし、少女を途中で鏡に向かって涙する。物語を動かし誘導しているように見える少女だが、少女の居場所は物語の中にはない。 少女がアロマを撃つことで物語は終わるが、少女の居場所はないままだ。物語は少女が動かしているようにも見えるが、考えて欲しい。少女がいなくても、物語は問題なく進んで行ったはずだ。女を取り合う2人。茶々を入れる男。映画はそれだけで充分。 少女が物語を始め、終わらせるが、少女の居場所はないまま。だからか、少女の名前もないままだ。物語を終わらせるためにアロマを撃ち、物語の主人公になるためにアンドリューを撃ったとしても、少女は名前のないまま物語は終わってしまった。
小林和貴