サンドリーヌ・ボネール『彼女の名はサビーヌ』
- 小林和貴
- 2017年7月18日
- 読了時間: 4分
2017年6月25日 第6回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!
課題作品はサンドリーヌ・ボネール『彼女の名はサビーヌ』
ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!
カメラは無垢ではいられない。無垢でなどいられるはずがない。カメラの視点を共有するほかないわたしたちもまた。サビーヌが、カメラの後ろに身を置く姉のサンドリーヌに「明日も会いに来てくれる?」と何度も問いかける。サンドリーヌは答えを返すこともあればしっかりと返答しないこともある。応答の不確定性・確率性がただよいながら、空間を自閉させていく。サビーヌとサンドリーヌが姉妹であることから、サビーヌがサンドリーヌであったかもしれない、サンドリーヌがサビーヌであったかもしれない、あるいはわたしたちがほかの誰かであったかもしれないという確率的思考をもわたしたちは共有する。これらはすべて、カメラという物体がなければ生じなかったかもしれない確率的な事態だ(この思考自体も)。カメラという物体が否応なく不確定性・確率的な事態を導入させてしまうのは、カメラの収めえた、そしてそれゆえにいまわたしたちの見ている映像が、一回かぎりの決定的な瞬間であったと主張するそぶりを見せるその瞬間に、別様に収めえた映像、収められたかもしれない映像たちが画面外をよぎるからだ。だから映画の使命とは、その別様でありえたかもしれない偶然性を引き受けながら、そのつどの判断の連鎖として映像をつなげていくことなのだ、という暫定的な結論も、この映画のカメラによって生じた確率的な思考だ。
三上耕作

本多克敏(批評同人penetora:@gibs3penetra)
昨日は遅くまで仕事をしていたので、今日は昼前まで眠っていた。ずいぶん長いこと眠ってしまったと後悔したけれども、私より先に就寝していた同居人がまだ眠っていたので、そんな日もあるよなと頭を切り替えた。眠いのだから、寝てしまうのは仕方ない。
朝ごはんは大抵パンで、リビングの窓の前に置いた椅子に座りながら食べる。引っ越したばかりなのでリビングにはテーブルがなく、お皿とはコップは同居人の椅子に置く。あまり行儀が良い食べ方ではないので、早めにテーブルを買わなければと毎朝思うのだが、かれこれ四ヶ月ほど思っているだけで、未だに買っていない。秋前には買いたい。
長く眠ってしまったことを後悔したり、朝ごはんはパンを食べたいと思ったり、食べ方の行儀の悪さを感じたり、テーブルを欲しがったり、起きて1時間もしないのに、たくさんの感情や思いが自然にこみ上げてくる。私はそれを特別な事だとは思わない。ごくごく当たり前のことだと思っている。
だけどそれらは本当は特別な事で、たまたま私にはできるだけなのかもしれない。私は感情や思いが自然に込み上がってくる障害なのかもしれない。なにが当たり前で自然なのかは、誰にもわからない。
小林和貴
目と目が合う程度のミラクルなんてサビーヌにとってさほど大切なことではない。彼女は眼をうつろに移動させながら様々なものと目を合わせようとするのだが、そんなないものねだりの恋人探しは、カメラの奥にいるらしいサンドリーヌ以外にいやしない。
それよりも、手と手が触れる事の方がよっぽど驚くべきミラクルだ。映画が回り始める。赤いセーターを着たサビーヌが緑の鮮やかな芝生に寝転んで、手を引っ張っても自分から起きようとせずにすぐにまた元の姿勢に戻るカットの不気味さ。サビーヌはあのダルくて重そうな身体で、引っ張る相手を拒絶してそこにいないものをねだる。脱力することは疲弊である以上に拒絶の身振りである。そのことは、頭に赤い防具をつけた男性が道端で歩くことを突如拒絶してしまうことにも伝播する。
牧瀬理穂からサビーヌへ、赤い服を身につけた人物のカメラに送る視線は交代し、脱力の仕草を波及させる。
たかはしそうた