宮崎駿『風立ちぬ』
- たかはし
- 2017年9月3日
- 読了時間: 4分
2017年8月27日 第8回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!
課題作品は宮崎駿監督の『風立ちぬ』
ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!
「風」の映画である。
ネット評を漁っていたら、禁煙協会とかいう団体のクレーム記事が噴出していた。曰く「喫煙シーンが多すぎる」「結核患者の傍で煙草を吸わせるとはけしからん」。
煙草の煙に現れる繊細かつ複雑なさまざまな風の表情が味わえるという豊かな表現を、禁煙の「問題意識」でもって封殺し、見なかったことにするのは余りにも悲しい。
「絵で動く純文学」の映画である。
文学に「純」をつけるのは死語かもしれないが、僕の中では「純文学」ですんなりくる小説群がある。
その手の日本の小説を読み耽った高校時代、いろいろと頭の中に妄想していた世界(風景)が頭の中にストックされていたけど出口がなく、本作に接したさいに一気に現れ出たかのような感慨があった。純文学で描かれた風景は確かに実在したのだろうが、その時代に生まれていない僕にとっては妄想の世界だ。それが確かに実在したかのような目視できるというのは一種の快感ですらある。
山内敬( trancinema )
そりゃあくすぐられれば笑っちゃう。
離れなければならない2人の手がつながっているから離れられなかったり、表のドアからではなく窓から侵入したり、その窓のカーテンが揺れていたり、サイレント映画のように繰り広げられる紙飛行機を用いた対話のシーンの身のこなしだったり、恐怖のない黒沢映画のように映画史を反復させる。
西島秀俊は棒読みの天才だ。「眠り姫」でも「SELF AND OTHERS」でも「LOFT」でも感情の強度は弱いまま、わずかに嬉しそうだったり、怒っていそうだったり、その程度で済ましている。だのにあんなに感情的に話されちゃ、棒読み愛好家としては、許せないな。
いじめっこが怒ってなんだかわめきちらしていたり、海軍との会議で海軍兵が文句を垂れていたり、複数の人たちがわめいているときの、全くなんて言っているのかはわからない音たちが素晴らしく面白い。何度聞き返しても全くなんて言っているのかわからない。
たかはしそうた
当たり前のことだが、『風立ちぬ』は夢の二つの体制についての映画だ。夢見るものとしての夢と、眠りに落ちたときに見る夢あるいは白日夢のことだ。意志としての夢と、無意識としての夢と言ってもいい。冒頭、飛行機が墜落する夢から落ちてくる二郎は、汗一つかかず、ビクッとすることもなく目を開ける。われわれが日頃経験するジャーキングを共有しない二郎にとって、夢は不随意なものではないということだろうか。それを証すかのように二郎は、白日夢のようなイメージに、突発的に襲われたという風ではなく、みずからすすんで落ちてゆくようなのだ。夢において不随意を経験しない二郎はしかし、以後さまざまな不随意を経験することになるだろう。大地震、菜穂子の結核、戦争、それらはすべて二郎の意のままにならないものだ。不随意であることが散らばっている環境において、かろうじて可能な意志の姿勢をわたしたちの全身であると肯定すること。それこそがこの映画の教えだ。
三上耕作
大正から昭和にかけて、文学も音楽も人の心を揺さぶるもの全てがキナ臭さと混じりあっていた時代。
技術革新も戦争の恩恵を受ける。
飛行機に魅せられた彼は、その時代に飛行機を作る。
より早く、より美しいものを。
時代に似合わぬ飄々とした物腰に、なんだか安心する。
この映画の主軸は彼の時の流れで、現実とも夢ともつかない形で描かれる。
彼は飛行機を作りながら、駆け足で青年時代を進む。
何度も飛行機を作り、空に放つ。
時には紙飛行機を、病弱な愛しい人のために。
機体は空高く舞い上がり、旋回する。
人々は否応無く、彼が巻き起こす風の先を見つめてしまう。
空は高く青い。日差しは明るく、萌える緑は揺れている。
草原の上を風が撫でる。
美しい、と思う瞬間、妙な不安にも襲われる。
風を巻き起こすのは黒い雲なのを知っている。
不安とともに奮い立つ。
風が立つ。いざ、生きめやも。
人々に新しい光を見せるまで。
にしのまゆみ

本多克敏(批評同人penetora:@gibs3penetra)