top of page

ジャック・タチ『プレイタイム』

  • たかはし
  • 2017年10月3日
  • 読了時間: 3分

2017年9月18日 第9回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!

課題作品はジャック・タチ監督の『プレイタイム』

ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!

 

無声映画時代のコメディアンが写してきた登場人物達が考えていることは「バレなきゃいい」ということだ。何かものを壊したらバレないように繕う。その繕いの運動がスラップスティックコメディと言われるものだった。

「私は忘れません。マック・セネットから、チャップリンから、みんなです。」とタチがアカデミー賞の授賞式で話したように、スラップスティックコメディからの影響をはっきりと示していたタチもまた「バレなきゃいい」と考える人達を描いてきた。レストランのユニフォームが破れれば、外にいる店員と交換をする。扉のガラスが割れれば、手すりだけでなんとかごまかそう。仕事中にワインだって飲んでいいんだ。

チャップリンで楽しみなのは、なにかを繕ったとき、それがいかにほつれていくかということだ。「街の灯」を見るときに私たちは、目の見えない女性が、見えるようになったときに、いかに目の前の浮浪者が実は自分を助けてくれたその張本人だと気づくのかを楽しみにしていなかったか。私たちはバレることを期待している。

「プレイタイム」は、チャップリンのようなサスペンスを期待させない。」バレないからだ。あるいはバレても本人達に影響はない。

「メッセージを受けとるためには、決して相手に受け取り通知を戻してはいけないし、受けとったというそぶりも見せてはならない。そんなことをしたら、コミュニケーションはいっぺんで切断されてしまう。とても神秘的だが、メッセージとはそういうものなのだ。」ミシェル・シオンがここで指摘しているのはまさしくバレないことがタチ映画だということだ。リアクションを期待することではなく、アクションそのものにタチ映画の魅力がある。

たかはしそうた

 

本多克敏(批評同人penetora:@gibs3penetra)

 

非同期的なものの同期。友人の部屋になかば強引にユロ氏が招き入れられるシーンにおいて、壁を挟んで隣どうしの家族がどちらも、その間にある壁に設えられたテレビを眺めるという、同型大の窓にくり抜かれた二つの家族の光景をカメラが同時にとらえるとき、あたかも間に壁など存在しないかのように、一方の家族のやり取りにもう一方の家族がおどろいているかのような身振りの照応が観測されることになる。その、ほんらいは無関係なものの同期を観測することができるのは、われわれがアパルトマンの外、さらには画面の外に身を置いているからであり、偽の同期は当事者によっては観測されない。外に置かれているという感覚は、室内の会話や音がわれわれにはいっさい聞こえず、ひたすら外を走る車の立てる音や通行人の会話だけが聞こえることによっても強化されるのだが、外の感覚が極度に達したときにわれわれがついに発見するのは、内と外を取り仕切る窓や扉、とりわけガラスの物体性なのだ。ナイトクラブにガラス戸を破壊して登場するユロ氏は、ガラスを割ることのできる唯一の人物として提示されるが、同時にガラスもまた、向こうを見せるという透明性の理念としての窓ではなく、毀損もする物体として提示されることになる。砕け散ったガラスを元通りにすることが不可能なように、それまでとはまったく違う性質を背負わされたガラスは、映画終盤、清掃員の拭く窓ガラスによって、それ自体が像を映し、それが傾けばそこに映るバスをも操作しうるという奇妙だが当たり前の論理を獲得することになるだろう。

三上耕作

Recent Posts
Archive
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Social Icon
  • Twitter Social Icon
  • Google+ Social Icon

©2016 by kaitemiru created with Wix.com

bottom of page