マノエル・ド・オリヴェイラ『アンジェリカの微笑み』
2017年10月22日 第10回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!
課題作品はマノエル・ド・オリヴェイラ『アンジェリカの微笑み』
ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!
冒頭、雨の中を走る車が写真館の前で止まる。大変美しいカットだ。美しさの中にこれから始まるほんの少しの恐ろしさを含む。長回しのこのシーンはゾクゾクさせられた。
マノエル・ド・オリヴェイラ監督(作品を初めて観た)101歳の作品だそうで、101歳が死についてどう考えているのかは興味深い。
主人公の青年イザクは元々内気な青年として書かれているが、アンジェリカの遺体を撮影してから、世間との断絶が深まっていく。イザクはそれに対し苦しみやなど後悔何も感じていない。むしろ今まで死んだように生きていたのだろうと推測する。イザクは最も美しい死に触れ、初めて温かい灯を感じることができたのかもしれない。優しくもおせっかいな下宿のおばさんの最も人間的な温かみには、何も感じられなかった。イザクはアンジェリカが生きていた時に会ったとしても、おばさん同様になにも感じない人間なのだろう。カメラ越しの被写体にしか美も生も感じない。もっとも心を奪われた被写体を追い求め、死んでいく。101歳が甘美的に死を描く、いいな、と思った。
「写真を撮ってくれ」と頼みに来る夜の訪問者。『病院坂の首括りの家』を思い出したり。これから始まるサスペンスっていうことでもないけど。観ている方はドキドキするなぁ。好きなシチュエーションである。
すだち頼子
みるかぎり、死体と生体は表面の差異には還元されない。つまり、体表に死体と生体のちがいをみることは困難である。だからこそ人は死体をみて「まるで生きているようだ」と言うことができ、また場合によっては映画内の役者の生体を死体だと、あるいは幽霊でもあるようなものとしてみることができる。アンジェリカの死体が、カメラを覗くイザクに微笑みかけるとき、死体に触れることから、また肉眼でみることから二重に遠ざけられているイザクは、その微笑みをみて、アンジェリカがほんとうは生きているかもしれないという疑念に囚われることになるだろう(できの悪い映画で死人の役者が「死にきっていない」とかんじられるような具合に)。その後、イザクの部屋のベランダに白い影のように立ち現れるアンジェリカと夢のなかでのような空中遊泳を繰り広げるイザクが現実に落ちてきて、あれは幻だったのかと自問しながらタバコの煙を吐くとき、われわれはつねにすでにイザクの部屋でタバコの白い煙が立ち昇っていたことにいまさらのように気づくのだ。下宿の女主人が語るように、どこから来たのかわからない、セファルディムの歴史的形象そのもののように過去から切断されたイザクと、われわれがしっているのは彼女がすでに死んだという事実だけのアンジェリカは、ともに奥行きを失った存在として白い影のように窓の外に消えていくばかりだ。
三上耕作
映画っていうのはこういうことなんだよなぁ、ともうどうしようもなくやられちゃうのがオリヴェイラの作品を見ているとよくある。シンプルで、これを映画と呼ぶにに違いないという時間。お屋敷の入り口でイザクが天井を何かに気付いたかのように見上げる。その光景を見たアンジェリカの姉が同じ方向を眺める。けれど2人は別のものを見ている。こんなにも簡単に些細なズレを描けてしまうことがオリヴェイラの憎さだ。どれほどの映画がこのズレを描くことに失敗してきたか。冒頭の4分間も続く長回しショットだって、憎たらしいくらい巧い。バルコニーとその前の道路の距離感、そして雨のおかげで、執事と写真家の妻は大声で話さなければならず、それが通りがかりのおじさんの耳にも入るなんて。「ラ・シオタ駅への列車の到着」のすごさは正直いうと良くわからないけれど、このショットはもうこの画角でしかないんだとはっきりと言える。空間が映画に運動を与えている。会話の内容でもなければ感情でもなく、あの空間でしかない。ちくしょう。
たかはし
いい歳をして僕はいまだに死と向き合えていない。50歳になったのに今でも死が怖い。 本作を撮り上げたのはオリベイラが既に100歳を超えた時で、本人曰く「私は人生について少しは知っている」と。まあそうだろう。しかし同時に「死については何も知らない。一度も試したことがないからね。誰でもそうだが。つまり死は謎であり、我々は何も知らないんだよ」 この作品の画面に映りこんでいるものがいちいちみずみずしくて驚かされる。それは生の喜び。生は言うまでもなく素晴らしい。例えば現実が僕の目に映りこんでくることは生ゆえに享受できる本当に感動的な体験だ…ということに普段いかに鈍感でいるかということを本作に接して気付いた。 問題は死だ。 生と隣り合わせにある死。一度足を踏み入れたら二度と戻ることのできない死。 『アンジェリカの微笑み』はそんな死を垣間見せてくれるような気がして恐ろしい。しかしそれゆえに僕を惹きつけてやまない。
山内敬( trancinema )
小鳥が死んだと知ったとき、イザクは狂ったように外へと走り出す。イザクは小鳥に嫉妬したのだろうか。アンジェリカが自分ではなく、小鳥を死へのと誘い込んでしまったと思い。自分はもう、用なしになってしまったのではないかと思い。
アンジェリカに微笑まれたとき、イザクは「死」への魅力に取り憑かれてしまったのかもしれない。生者が死者に魅入られ「あの世」に連れて行かれる話は、日本の怪談話にもよくある。しかし、この作品には怪談話のような怖さはない。あるのは、美しい死への憧れだ。
『アンジェリカの微笑み』をオリヴェイラが撮ったのは101歳のときだ。101歳にもなれば、死は身近なものだっただろう。監督にとって「死」は恐怖の対象ではなく、美しい憧れになってたのかもしれない。
若くして死んだアンジェリカは、写真に収めたくなるほどの美しさ。カメラ越しで見つめれば、まるで微笑んでいるかのように見える。死にまとわりつく、悲しみや恐怖すら圧倒される美しさだ。
小林和貴