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イグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』

2017年12月28日 第12回目の「なんか映画について書いてみる会」を行いました!

課題作品はイグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』

ここに"なんか映画について書いてみた文章"を掲載します。 こんな"書いてみた"文章たちが集まりました!

 

「学びである、という言葉があります、また「悟る」とは、「何度も悟る」ことである、とある本で読みました。」私の友人が言ったこの言葉が妙に頭に残りこの文章を書きました。

「100人の子供たちが列車を待っている」といっても、実際に100人の子供たちが列車をまっているわけではありません。列車とは1895年、パリで初めて上映されたといわれるリュミエール兄弟の『列車の到着』のことを指します。

女性教師がアニメーションやフィルムの仕組みを子供たちに教えていき、やがて子供の一人がスクールバスが到着するアニメーションを制作するというものでした。

さてこの作品はチリ国家によって「21歳以下の者は観てはならない」と決められたそうです。当時のチリは軍事国家であり、芸術家が生まれていくことに対してよしとされない風潮にあったことがうかがいしれます。

しかしこういった「学び」を制止する行為というのは日常にたくさんひそまれていると私は感じます。私には姉がいるのですが、親戚の集まりで姉が子供をつれてきたときのことでした。5歳にもなる長男が1から100までを数えようと試みていました。私は5歳で100までいえることに対して純粋に驚いていたのですが、姉はある種耳障りな数え声を止め、静かにさせるためにドラゴンボールのアニメを観るように促したのです。私は数字に興味を抱くことよりか大事なアニメなどあるのだろうかと思いました。

子供が何を知らないか「学ぶ」ことができなければ、子供にとっての「学び」をつかむことができないように感じます。この映画監督は、チリのある地域に暮す子どもたちは貧しく、ほとんどの子が映画をみたこともなかった、ということを知っていました。そして映画と出会うことが素晴らしいことであることも知っていたからこそ、この映像が生まれたといえます。この映画にはたくさんの「学び」の連鎖のようなものがひそんでいるように感じます。

本多克敏(批評同人penetora:@gibs3penetra)

 

編集とは、想定通りに配置して確認をする作業ではなく、許されぬかもしれない接続を通じて、あるショットに潜在的にあった強度を顕在化させる終わりのない発見の作業だ。

おおよそ無理だろうと思えたつながりが、それでも自立してしまうことで体感する映画の寛容さに恐れおののきながら、Pre-productionやProduction時のショットの意図を放棄してなにか絶対的とも思えるようなつながりを得ていく。

だからこそ、発見として編集された映像は、常に衝突を繰り返す。賛美歌が聞こえながら壁に白いシーツ(スクリーン)を設置した途端、子供達の騒ぎ声とスクリーンに投射された光で影絵遊びをする姿が現れたときに私たちが感じる唐突さ。青い教会(「青い教会」⁉︎)の前に横一列に並んでいる子供達がフレームに突如現れただけでもその演出された画面にたじろぐのに、キャメラがぐんぐんと上昇していくときの断絶の距離感は、その衝突の傷跡だ。

出し尽くされたためしはなく、常に映画は他のショットとの衝突の可能性を持っている。だからこそ今見ているのはとりあえずのものにすぎない。私たちはもしかしたら全く違う相貌だったかもしれない映画の可能性を知りながら、100人の子供達と作品を見ている。

たかはし

 

スペイン語を話しているので舞台は南米のどこかだろうか?子供たちの身なりは一様に貧しそうだな、なんて観ていると、ふいに子供の口から「秘密警察」という単語が出てきてギョっとする。まもなくこの映画の舞台はピノチェト政権下のチリであることが判明する。

そんな背景を持ちつつ、映画のなかで映画教室が進んでゆく。

手作りの装置を通して「絵が動く」原理を一から講釈してもらえる。映画の歴史を教えてもらえる。「1895年12月28日。この日付を覚えていてくださいね」という先生のセリフにわたしは素直に頷いてしまった。

つまりわたしは映画のなかの子供たちといっしょに映画の原理、映画のなりたちを学び、楽しんだ。そんな経験の蓄積の先に出会った映画の中の映画との出会い。リュミエールの汽車やチャップリンの動きは素敵だった。

冒頭で子供たちに「今まで観た映画は」という問いかけがある。ロッキーとランボーくらいしか出てこない。ほとんどの子は映画を観たことがない。政権による抑圧のせいか、経済上の問題なのか。恐らくその両方なのだろうが、とにもかくにも子供たちは映画を学んだ。そして意気揚々とバスに乗って映画館に向かうのだ!

山内敬( trancinema )

 

『100人の子供たちが列車を待っている』において、ソーマトロープやゾーイトロープ、リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』を見る子供たちを見るわたしという、見ることの多重がまずやってくる。そして、映画史というより映画というものの歴史をなぞるように学ぶ子供たちを通して、わたしもまた映画というものを学ぶ。学ぶ子供を通しての教えは、それぞれの親にも伝わり、親もまた子供からゾーイトロープの楽しみかたを学ぶ。教育の相互性がここにはある。教会で行われる映画教室からは聖具や説教壇が運び出され、儀礼のような厳かさは周到に遠ざけられている。教師が生徒と同じ位置、同じ目線に降りて話すとき、もはや教える-学ぶという状態は発生しない。ただ、「学ぶ」という姿勢をとる意志だけが存在し、そこにおいて「教育的」な状況が構築される。見ることの多重と学ぶことの多重がこのように重ね合わされるとき、見ることを学ぶ映画としてのストローブ=ユイレの映画をわたしは透かし見ている。

三上耕作

 

子供たちの笑顔が印象的な作品だが、所々に不安定な国内情勢が垣間見える。撮影をされたことはあるかの問いに「警察に会話を録音されたことならある」と答える少女。紙で作る映画のテーマは、ほぼ満場一致で「デモ」に。最後のバスのシーンでは「ピノチェトやめろ」と叫ぶ子供達。彼らにとっては、映画よりもデモや独占政権の方が身近なのだ。

ゾートロープなどを作り喜んだり、チャップリンの映画で爆笑する子供達を見ていると、映画そのもののあり方について考えてしまう。本来映画は、大衆娯楽であり、多くの人が楽しむものだ。映画を小難しく語ったりする行為は、いったい何を生み出すのだろうか。

日本で映画を観るということは、あまり特別なことではない。だけど映画を観れること、楽しめることは、ものすごく贅沢なことで、恵まれているのだと再認識。今年もたくさん映画が観れて良かった。

12月28日に開催で、課題作は「100人の子供たちが列車を待っている」。たまたまたなのだろうが、なんともシネフィルぽいなと。

小林和貴

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