量産型手作り風
僕は小学校1年生のときのバレンタインデーでチョコレートをくれた幼馴染が結婚するということと、今祝儀袋に入れている3万円について考えていました。ところで式には小学校のときの同級生は2人しか呼ばれておらず、僕ともう一人、女の子が呼ばれていました。その子からも小学校1年生のバレンタインデーでチョコレートをもらいました。ちなみに僕はバレンタインデーにもらったチョコレートの最多記録が小学校1年生のときで、5個もらったのですが、5個はすべからく量産型手作り風チョコで、同級生に配りまくっていたうちの1個に過ぎません。
3万円は結婚する2人の幸せのために支払うものだと思っています。
けれど、その3万円を徹底的に楽しみつくしてやろうと思う卑しい気持ちのある者は、それだけで満足なぞせず、徹底的に楽しんでやろうじゃないかという気概で参加しているのです。私のように。そして気付いたのですが、結婚式とは話芸を楽しむ場なのです。
冠婚葬祭で行われる各種挨拶は、何度か体験をしていればある程度話されるべき内容というものがわかってきます。そしてその内容が大方似通っていることも。つまり、同じような内容を繰り返し繰り返し、話しているのです。いわば古典落語なのです。古典落語というのは同じような内容を演者が変わっても繰り返し繰り返し話しています。しかしそこには「作家性」がある。その作家性を楽しむこと、そして大方の場合スピーチのアマチュアでしかない人たちが果敢に挑戦をしていく姿。そこが結婚式の醍醐味です。
結婚式をトコトン楽しんでやろうと目論む卑しん坊な僕は、だから大変なのです。真剣に参加をしなければならない。挨拶が始まるや否やそれを楽しみ尽くしてやろうと思っているのだから。話の構造、登場人物、抑揚、ユーモア、場づくり、アドリブ、あらゆる角度から聞入らなければならない。酔っ払ったり隣の席の人と気ままにおしゃべりをしている場合ではないのです。
3万円を包みながらそんなことを考えていました。
さて、あのときのバレンタインデーのような結婚式は何事もなく終わり、幼馴染は笑ったり泣いたり恥ずかしそうにしていたり、していました。僕は初対面の人向けのピクニックフェイスで果敢に挨拶だけは聞き漏らさないぞと品評していました。
盛りたくさんな1日でした、あなたも私も。
寸評。主賓(新郎上司)の祝辞が特に巧かった。他は及第点。