郵便的サッカー
6月29日のロシアW杯、日本対ポーランド戦での後半ラスト10分間の日本チームのプレーが物議を呼んだ。日本は0-1で負けている中、決勝トーナメント進出のため、現状のスコアを維持する作戦に出た。かたやポーランドはもぎとった1点を守り抜く体制に入った。結果、両チームが守りの姿勢になり、日本チームは時間稼ぎのパス回しを行い会場中からブーイングが起きた。
翌朝のTBSラジオ「森本毅郎・スタンバイ!」内ではこの日本のプレーの賛否を問うメールテーマが発表され、試合後数時間しかたっていないというのに、多くの意見が届いたという。私は7時代後半に紹介された意見しか聞いていないのだが、賛否は大方一つの問いにまとめられる。それは「ルールに従っていれば何をしても良いのか?」という問いである。
賛成派の意見としては、ルール上問題ない、立派な戦術だというものが大半であり、また反対派はルールに書かれていなくても守らなければならないものはある、スポーツマンシップに反する、といったものである。
ところで哲学者・批評家の東浩紀氏ならなんと答えたのだろう、というのが僕がここで書いてみたい内容である。あるいは「郵便的に」この問いに答えるとしたらどういう答えがあるのだろうかということである。なぜならそこにこのプレーの賛否を超えた新たな答えが見いだせるのではないかと思えるからだ。
さて突如現れたこの「郵便的」という言葉をまずは説明しておかなければならない。これは東浩紀の主著である「存在論的、郵便的」で出てきたタームである。この本の中で東浩紀は「形而上学的」「否定神学的」「郵便的」の3つの思考のシステムを出してる。ここで書きたいのはあくまでも先日のポーランド戦のプレーから「ルールに従っていれば何をしても良いのか?」という問いへの回答であるからそれにからめてごくごく簡単にまとめる。
「形而上学的」とは、世界は全て言葉によって語りつくすことができると主張する態度である。ここで言えばスポーツマンシップやプレーの美しさが言葉として現前したものがルールブックである。だから形而上学的な態度であれば、ルール上OKなのだからあのプレーは立派な戦術であるし、否定される筋合いはないのだ。
では、2番目に出てきた「否定神学的」とは何か。これは言葉に語りつくせないものがこの世にはあるのだという態度である。では何か、例えばそれはスポーツマンシップとか、美しさとかと言われるものかもしれないが、それは”わからない”。決して説明はできないのだけど、言葉の外部になにか”わからない”ものがあり、それは守られなければならないとする態度である。言葉で説明できないものを説明しようとすると、「〇〇(既に言葉として現前しているもの)ではない」と否定をしなければならない。だからこれが「否定神学的」と呼ばれる。否定神学的な態度に従えば、あのプレーは否定されえる。ルールブックに書かれているものが全て”ではない”のだから。
さて「郵便的」とは。先に答えを書いてしまうと、プレーの賛否は「わからない」と答える。それはルールブックに書かれている言葉の意味は読み手によって差異が生まれ、常に不確定であるとする態度だからである。形而上学的態度と否定神学的態度が共に「ルールブックに書かれている言葉をお互いに共有している」という前提があったのに対して、郵便的とはルールブックに書かれているからといって私とあなたは同じルールを共有しているとは限らない、ということだ。「存在論的、郵便的」内の言葉を使えば「ある概念が特定の意味を持ってしまう、その瞬間の前に「かも知れない」の疑いをつねに差し入れることにある。」(P50)実に身も蓋もない話である。
これで終わってしまえばなんの解決にもならない。だから郵便的判断は従来のサッカーとは違う方法を提案する。
話は少しそれるけれど、トランプのゲームで「大富豪」(あるいは「大貧民」)というゲームがあり、このゲームには多くのローカルルールがある。数字の8が出てきたらそのターンは終わりだとするところ、同じマークが2枚連続(3枚連続の場合もある)で出るとそのマークしか出してはいけないとするところ、他にも無数とあり、どれがオリジナルなのかはよくわからない。それぞれのルールにそれぞれの”弱いつながり”のコミュニティがあり、プレイヤーはあるコミュニティにいけばそこのルールに従う。自分の属するコミュニティのルールがつまらなければ気軽にそこから抜け出せるし、好きなルールのコミュニティに行けばいい。
郵便的とはこの「大富豪」と「ローカルルール」の関係を「サッカー」と「ルールの解釈」に当てはめる。「サッカー」と呼ばれるもののルールの解釈は無数にあり、それぞれが独自に作り上げたルールでプレーをする。そこでは全世界で共通のルールはなく(大きな非物語がある)、たくさんのルールが同時にある(小さな物語がある)。そんな環境の中でプレイヤーたちは自らが属する場所がありながらも、他の場所へと無責任に移ってみて、偶然性(誤配性)に身を任せながら様々なルールのサッカーを体験する。そんな人たちが22人集まってそれぞれのルールでサッカー(とそれぞれが信じているもの)をしたらサッカーそのものが崩壊してしまうのではないかと思われるが、後から思うとそこに確かにサッカーだと思われるものがある。
それが21世紀のサッカーのあり方だという。