無責任に好きなことにしちゃえばいいっていう話
- たかはし
- 2018年8月23日
- 読了時間: 3分
僕はあるモノが好きかどうかというのは基本的に”決めの問題”だと思っている。つまりあなたが「これを好きだと思おう」と決めたらそれはもう好きなのだ。そこにはなんの感情の高ぶりもトキメキもありゃしない。 というのも、僕は大学一年のときに同級生と「好きだって思ったらその人のことを本当に好きになるのか」という実験をしたことがあって、まんまと僕は自分を騙してその人のことを好きになったのだ。天使にハートを打ち抜かれていない。けど好きになれる。問題は決められるかどうかでしかない。つまり「好き」と「嫌い」の選択で「好き」を選べばそれで解決する話なのだ。
ところで僕は先月彼女と別れたのだけど、恋人と別れるかどうかも単純な”決めの問題”でしかない。何か問題が起きた時に「別れない」と決めれば良い。そうすれば「別れないにはどうしたら良いだろう」という問題解決につながる。ここで「別れる」を選択したら、一見解決しているように見えるのだけど、やっていることは発生した問題を一時停止しているだけにすぎない。問題を放棄して逃げ出しているだけだ。
「だから別れるのはいけない」ということを言いたいのではない。それくらい僕たちの生活は”決めの問題”に左右されているということだ。そしてこの問題は私達の感情と一切関係ないところで働かせることができるロジックなのだ。
よく、決めるためには、選択するためには材料が必要だと話す人がいる。誰かを好きだと決めるためにはそれを裏付ける理由が必要だというのだけど、それは一部間違っている。私達には”既に決められている選択”と”自分で決められる選択”の2種類がある。”既に決められている選択”とは、もう自分ではどうしようもない選択。例えば自分の親、なぜこんなに貧しい家に生まれたのだろうという問題は自分ではどうしようもない。よく「運命」と呼ばれるものはこの類だ。これには選択のための材料は必要ない。
僕がさっきから書いているのは、”自分で決められる選択”をあたかも”既に決められている選択”として扱ってみようじゃないかということだ。僕たちは様々な自由を獲得してきた。今やNHKの料金を払わない自由だってあるんだぜ。だけど中には獲得しようとして得たわけではないけれど自由になっていたこともある。気づけば電力会社を自分で選べる時代になっていた。何も今までが不自由であったわけではないのに。そんな世界に生きていたら、あまりにも選択が多すぎて選択だけで1日が終わっちゃうよ。だったら自由である権利を自ら放棄して、”運命づけられていた”ことにして、既に決まっていたことにして、生きてみるのもいいじゃない。
だけど忘れちゃならないのは、「どの選択権を放棄するか」の選択の自由は常に私の側にあるということだ。決して同じ権利を一斉に放棄するように働きかけてはいけない。「お前はこの人を好きになれ」と強いることはできない。その強制力から僕たちは自由を奪還してきたのだ。つまり僕たちはわがままになれる権利の幅をどんどんと広げてきたとも言えるかもしれない。
だから僕たちは誰に強いられるわけでもなく誰かを好きになることができるし、その選択を”決めの問題”として無責任にも既に決められていたことにできる。好きでもないものを好きなことにできるし、すぐさま嫌いにもなることができる。それを自分の選択ではなく、さも誰かから強制的に決められたようにふるまう事さえできてしまう。
そんな無責任時代にどうやったら目の前の相手を信じることができるのだろう、ということが現代を生きる僕たちの最重要課題に他ならない。
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